2008.6.2

ラグビーW杯2003奮闘記(1)

「ラグビーワールドカップ奮闘記」
~ひたむきにひとつひとつ心をこめて~
元ラグビー日本代表テクニカルスタッフ 村田祐造

第1回 『プロローグ』

「ジャパンと東大は同じなんですよ。
強い相手に勝とうと思うなら、狂気じみた情熱とひたむきさが必要なんです。
もっとチームが一つになってひたむきに泥臭いラグビーをやらなきゃ、そりゃ惨敗しますよ。
そういう雰囲気を日本代表に作っていきましょうよ」

日本代表チームのテクニカル会議で私は力説した。
2003年ワールドカップ直前の春のテストマッチでアメリカ代表に続き、
ロシア代表に惨敗した頃だ。日本代表のふがいない姿。

チームのために体を張らない何名かの選手が桜のジャージを着ているという事実。
また、そのチームのスタッフを自分もやっているのだから責任の一部は自分にもあるのだという事実。
これらの事実を私は許すことができなかった。

「ジャパンがワールドカップで惨敗する姿は見たくない。
このままじゃダメだ。なんとかしなくちゃ」

私はそう感じていた。
日本代表の問題点を考えていると、いつも学生時代に私が楕円球を追いかけた
東大ラグビー部のことが頭に浮かんだ。

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「対面殺して俺も死ぬ!」

私が大学1年生のときだ。
関東大学対抗戦で初めて21番のスイカ(緑と黒の縞々模様の東大ラグビー部の
公式戦用ジャージ)を手にした早稲田戦のジャージ授与式。

私が着たかった11番のスイカを手にした3年生の吉岡先輩が、泣きながら絶叫した。
ぽっと出の1年生でリザーブに入ることができた私の覚悟とは違っていた。
すべてを懸けて、初めて対抗戦を掴み取った3年生の狂気と覚悟に、
私は背筋がゾクゾクするような畏敬と感動を感じた。

午後10時半、全体練習が終わって大半の部員がシャワーを浴びて家路につく頃、
他に誰もいなくなったグラウンドには、黙々とプレースキックを繰り返す4年生の佐分利先輩がいた。

うずくまり、ゴールを見据え、ボールを置く。
先輩の足から放たれたボールは、美しい弧を描いて、薄暗い照明の中に浮かぶバーを
越えていった。いつも、正確に淡々と。
苦もなく決まってしまう対抗戦での先輩のゴールキック。
いつもと同じ見慣れた軌跡が、静かな暗闇に溶けて行った。

インゴールにはいくつものボールが転がっていた。
次のボールを丁寧に心を込めて地面にセットする先輩の背中が教えてくれた。

「積み重ねた努力は裏切らない」

意識朦朧となり、泥だらけになって繰り返したガチョン(タックルとラックとセービングを延々と繰り返す練習)。
「グァチャーンと行けばいいんですよ」と当時の寺尾監督が発案し命名された練習である。

日体大と青山学院大を破った2000年の東大ラグビー部。
大芝と宋が率いていたあのチーム。ひたむきで泥臭い男達。努力と挑戦の日々。
そんなスイカのラガーマン達の姿を思い出していた……。